2005年02月09日

そこんとこ「夜・路・四・苦」・・・は古代人の大いなる知恵!

夜露死九というのもどこかで見たような…。けっこういろんなバージョンがあるんですよね、ヤンキーの人たちが書く当て字って。紅蓮だの憂鬱だの、毒々しいスプレーで描かれた文字をみるたび、「どうしてこんな難しい漢字を知っているんだろう?」と不思議になったものです。真夜中、右手にスプレー缶を、左手に国語辞典を持ったヤンキーがいたら…なんか親近感が湧いてきそうでコワイなあ。
ということで(?)、今回のキーワードは「当て字」です。


前回、激しく揺れ動く朝鮮半島の様子をご紹介しました。三国の対立には一向に終わりが見えません(今のイスラエルとパレスチナみたいな感じだったのかも…)。こうした中、故郷に見切りをつけて日本へ「亡命」する朝鮮の人々が増え続けていきました。彼らを「渡来人」または「帰化人」と呼んでいます(注:ただし最近は「帰化人」という言葉は滅多に使われません)。
弥生文化の基礎をこしらえてくれたのも、大陸から渡ってきた人々でしたが、古墳文化やつづく飛鳥文化に華麗な彩りをあたえたのも、また彼ら渡来人でした。
しかも今度は、優秀な技術者や知識人が相当数やってきたのです。青色発光ダイオードの裁判で新たに問題とされた、すぐれた頭脳や技術の「海外流出」…こうした事態が、朝鮮半島と日本の間で起きていたのでした。
どれほど多くの渡来人が日本に移り住んだのか、というのは平安初期の『新撰姓氏録』からうかがうことができます。ここに載せられたおよそ1200の氏族(一族)のうち、なんと約3割を渡来人系の一族が占めているという結果が出ているのです。
平安時代から長い長い時が立ちましたが、この3割という高いパーセンテージからは、もしかしたら私のご先祖さまも、亡命してきた渡来人(の家来の家来)だったりして…な~んて妄想もできちゃいますね^ ^;


さて、技術の面では鉄器・須恵器(1000度以上の高温で焼かれた土器で、ろくろの使用やのぼり窯での焼成など、最新の技術が用いられ、平安時代まで製作・使用された)の生産、機織、金属工芸、土木などが伝えられ、大和政権は彼らをプロフェッショナル技術者集団=「品部(しなべ)」に組み込み、フル活用したと思われます。
知識や学問の面でも、五経博士・医博士・易博士などのすばらしい学者さんが次々やってきて、さまざまな教えを伝授してくれるなど、日本の文化の質は飛躍的にレベルアップしたのですが、とりあえず「漢字の伝来」ひとつにしぼって、お話していきたいと思います。


今までずっと中国や朝鮮半島の史料しか引用できなかった事でもお分かりの通り、古代日本には「日本語」はあっても「文字」はありませんでした。その日本語に文字を与え、文章を書くのを可能にしたのが「漢字」だったのです。
漢字が日本にもたらされたのは4~5世紀、第15代応神天皇の時代が最初といわれています(昨日のワカタケル大王=雄略天皇は第21代目)。漢字を自在にあやつり、文章をさらさらと書きつづる渡来人たちは、大和政権の貴重な「書記官」となりました。
「書記官」たちは当初、話される日本語を自分たちの(もしくは他の人の)頭で翻訳して、自分たちの言葉で書いていた…ような気がします。根拠のない推理で申し訳ないんですが^ ^;
しかしやがて彼らは日本語をそのまんま書き写す方法を編み出したのでした。それが「当て字」でした。

しょーもないタイトルですが、ここでもう一度見てみると。
「夜(よ)・路(ろ)・四(し)・苦(く)」
…意味はまったくありませんが、音読みするとちゃんと文になっていますよね。
このように漢字の音に注目して、それをひとつひとつ当てはめていくことで、日本語を文章化するのに成功したわけなのです。
ただ、当て字の弱点は文が果てしなく長くなることです。今書いている日記でも、かりに全部当て字にしてみたら、とっくに字数制限を越してしまうことでしょう(その前に誰も読んでくれないって!)。
そこで訓読みをいっしょに用いるわけです。訓読みは逆に、音はひとまず無視して、意味をあてるやり方です。たとえば、
馬→音読みだと「ば」・「ま」、訓読みだと「うま」
になりますね。大陸の人たちにとっては馬は「うま」と読みませんが、意味が同じならそれでよし!ということで、訓読みが登場したのです。
この音・訓併用で最古の歴史書『古事記』を書いたのが太安万侶(おおのやすまろ)という人物でした。彼は序文の中でこう述べています。
「訓で記すと、漢字の意味と古語の意味が一致しません(注…彼は古い伝承を書き写しているため、昔のことばの意味と、現在の漢字の意味をマッチさせるというさらに困難なことをやっているワケなんですね~。考えるだけでクラクラするなあ)。音で書きつらねると、文章が長々しくなります。よって、ある時は音・訓を交え、ある時はすべて訓を用いて書くことにしました」(田辺聖子著『田辺聖子の古事記』より引用させていただきました)
こういった事情で、本来の『古事記』やおなじみ『万葉集』は、どこひらいても漢字、漢字、また漢字といった具合で、今読むにはとてつもない努力と根性が必要ではないかと…。今はひらがな・カタカナがあってしみじみありがたいッス……。

とはいえ、漢字は本当に偉大でした。今現在もこんなにたくさん使わせていただいているのですから。
音読み・訓読みに泣いている小学生のお子さんは少なくないと思いますが、これも昔の人の試行錯誤のたまもの、どうぞ頑張って勉強して下さいね~。


『古事記』成立のお話は個人的に大好きなので、また機会があったら詳しくご紹介できれば…と思ってます。
最後に豆知識を。音読み・訓読みの二通りは仕方ないとしても、音読みが複数ある漢字っていったい何なのか?
これは中国の事情が関係しています。おおざっぱに説明すると、この当時中国は南と北に分裂していまして、はじめに百済経由で日本にもたらされたのが南の漢字、呉音と呼ばれるものでした。そのあと北で用いられていた読み方(漢音)が入ってきたため、現在のようにややこしいことになってしまったワケなのです。
例を挙げてみますね。
一・二・三は呉音ではイチ・ニ・サン、漢音ではイツ・ジ・サン
元は呉音ではガン(元日)、漢音ではゲン(元気)
正は呉音ではショウ(正月)、漢音ではセイ(正義)

といった具合です。

うーん、トリビアの泉に出すには難しいかな^ ^;


漢字だけで何か長くなってしまいました。本当はもうひとつの大切な伝来もの「仏教」についても、ご紹介する予定だったんですが、ちょっと後にまわした方がいいかなあ。
一応次回は「大和政権・解体新書(仮)」にするべ~と思ってます。もし違っていたらごめんなさい!

投稿者 くまくま15 : 20:38 | コメント (6889) | トラックバック (0)