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2005年01月26日

ファーストインパクト!弥生時代がやってきた!!

前回どうするべ、と言っておきながら、あっさり弥生時代へと入ってしまいました。縄文時代のネタはしばらく寝かせておいて、折をみて紹介するということで、どうぞよろしくお願いします。


さてときは江戸末期、アメリカの黒船が日本にもたらしたインパクトは相当のものでしたが、弥生時代の幕開けも、それに負けず劣らず(あるいはそれ以上?!)強烈でありました。高度にすすんだ新しい文化が、まとめてドドドドッと、縄文文化の日本へ押し寄せてきたのです。稲作を中心としたその文化は、急速に広がっていき、弥生文化と呼ばれるまでになりました。

弥生時代の始まりです。

(弥生時代は一応、紀元前300年位から紀元後300年位の、約600年間とされてますが、開始の年はハッキリしていない、というのが現状です。というのも、稲作などの文化が「伝わった」時点で弥生時代が始まるのか、「日本列島に広まってある程度根付いた」時点でやっと弥生時代といえるのか、意見が分かれているからです。個人的には後者を押したいところですが。)

この新しい文化は、大陸(日本史では中国や朝鮮半島を意味します)からやってきました。の大陸の気候の寒冷化→食料難による大混乱→難民(もしくは移民)の日本列島への流入、という背景があったと考えられてます。
弥生文化=稲作というイメージがありますが、彼らがもたらしたものは、稲作を核とした全く新しい生活様式と言っていいと思います。強引に例えるなら、アメリカ文化に染められた戦後の日本というところでしょうか。肉食、パン、ファーストフード、ジーンズ、テレビ、マイカーなどなど、日本人の生活は大きく変わりましたよね。つまり、先進地域から後進地域へ、キラキラ輝いて見える文化がやってきた!という点で、戦後も弥生時代もおんなじだと思うのです。

大陸から多くの人々がやってきたとき、縄文の人々はきっとさまざまな反応を示したことでしょう。新しい文化にすぐなじんだ人、なじもうと努力した人、カルチャーショックに悩んだ人、今までの生活スタイルを守ろうとした人、土地を追われた人……しかし、縄文人たちは結果的に彼らを受け入れ、彼らの文化をおおいに学ぶことになりました。


最後に、縄文人と、弥生人(大陸から来た人々やその血を濃く受け継いだ人たち)の顔の比較をのせておきます。むかし、「キミは縄文、弥生、どっち系の顔?」なんてやったような気がするなあ。

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さんざん「新しい文化」と言っておきながら、一言も触れずに終わってしまったので、次回こそ弥生文化一色でいきたいと思います。それでは。

2005年01月27日

弥生文化丸ごとお届けの巻

前回紹介したように、大陸の人々は、稲作技術とそれに不可欠な道具(つまり農具ですね)、その他いろんな最新技術をたずさえて日本列島へやってきました。今回は、弥生文化の核となる稲作をメインに、語っていきたいと思います。


その前に!大事なことを忘れてました。この時代のシンボル、弥生土器についてまだ何にも触れてなかったですね。スミマセン^^;ちょこっと説明させてもらいます。

縄文土器が「縄目の文様の土器」という土器そのものの特徴から名づけられたのに対し、弥生土器は「これでいいのか?!」とつっこみたくなるくらい、ある意味カワイソウな名前の付け方をされてます。というのも、東京都本郷弥生町で発見されたから…。思春期のさびしい心をかかえた少年少女ではありませんが、「何で縄文土器だけ、ズルイじゃない!わたし自身とキチンと向き合ってよ!」と、内心たましいの叫びをあげてるかもしれません(ちとオオゲサ?)

弥生土器は、さすが技術面が向上しているだけあって、うすくて硬く、洗練されたフォルムをしています。実用性を重んじるようになったのか、形も固定化・限定化されて、貯蔵用の壷・煮炊き用の甕・食べ物を盛り付ける高杯(たかつき)などが基本セットとなりました。下の図を参考にしてください。

zyoumon6.png

同じ品質のものを提供するために、カタチをシンプルに統一化する、現代の生産方法と通じるものがありますね。その点、縄文土器は技術的には劣っていたものの、何に使われたのかサッパリ分からないキテレツなものがあったりして、個性がたいへん強いのが印象的でした。
もっとも、どちらが良い悪いという問題ではないので、あとは個々のお好み次第、といったところでしょうか。


それでは弥生時代の稲作について、順を追ってみていきますね。
そもそも、この時代はどんな田んぼを使っていたのでしょうか?田んぼへ水をひく技術(=灌漑技術)がまだ出来上がっていない初期のころは、ジメジメした湿田に籾をまいてました。しかし、水をはり、終わったら排水して休ませる、ということをしないと、田んぼは疲れ果てて栄養失調になってしまうため、つねにジメジメとしていた湿田では生産能力も低かったそうです。
のちに灌漑技術が整ってからは、一部では乾田が出現し、生産能力もアップしました。

では稲作の手順を追いながら、農具の紹介もしていきますねー。


(1)種まきしよう!…籾を水田に直接まく直播(じかまき)が主流だったそうですが、苗まで育ててから植えつける、いわゆる田植えもあったそうです。

(2)稲よ、育て!…今でもおなじみの鍬(くわ)や鋤(すき)の他、湿田には特に欠かせない田下駄が使われていました。これで足がめりこまずにすみますね~。

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(3)お待ちかねの収穫!…今は根元から刈っていきますが、当時は石包丁を使って、稲の穂先だけを刈り取っていました。これはこれで、手間が相当かかりますね…。

(4)このままじゃ食べられないので脱穀!…臼と杵をもちいて、トントントンと、歌でも歌いながら気長にやっていたのでしょう。

(5)お待ちかねの食事!…今とは違い、蒸して食べていたそうです(おかゆみたいな感じかな?)。餅のようなモノもあったとか。

(6)あまったものは保存です…床が高く持ち上げられており、風通しのよい高床倉庫(そのまんまの名前でグー!)に運び込んで収納されました。

また来年もがんばっておコメ作りに励みましょう!

ちなみに、コメ作りの大変さは、日テレで日曜日夜7時から放映されている「鉄腕ダッシュ」で、その片鱗を知ることができました。興味をもたれた方はぜひアクセスしてみてください。


その他の技術としては、鉄や青銅など、金属器と呼ばれるものを製造する事が挙げられます。鉄は農具にも使われましたが、腐りやすいため、現在ではほとんど残っていません。
青銅は銅とずずの合金で、こちらはうってかわって今でもたくさん目にすることが出来ます。青銅器は銅矛、銅剣といった武器系が多い中で、銅鐸(どうたく)というスカート状のキミョーな代物があります。どう使ったのかは明らかではないですが、木の枝などにつるして鐘のようにカラカラ鳴らしたのではないか…といわれてます。

それはともかく、銅鐸の表面には絵が描かれていることがあって、狩りの様子など人々の生活が描かれているものもあります。そういうのは見ているだけで楽しいですネ~。


次回は、こうした新しい生活・新しい技術が日本社会をどう変えていったのか、ダイナミックかつ繊細に(意味不明)スケッチしたいと思います。卑弥呼も登場しちゃうかな?

2005年01月28日

勝ち組と負け組!熾烈な生き残りバトル!

前回稲作を中心にご紹介したところ、次のようなコメントをいただきました(注:以前別のブログで一連の記事を載せていたため、その時にいただいたコメントになります。ご了承下さい)

「そして、興味深かったのが、田んぼの生産能力でしょうか?
やっぱり、頭のいいリーダーがいる地域は、生産能力も高くて、どんどん力を蓄えていってクニの首長みたいなものに、なっていったのでしょうか?」

今回のメインテーマの一つは、まさしくここにあります。
稲作が本格化するに従って、弥生社会は激変していきますが、今回は「勝ち組・負け組」をキーワードとして(あまり好きなコトバではないのですが、他に思いつかなかったので、ご容赦下さい)、弥生時代の熾烈な生き残りレースを展開させていきたいと思います。


大陸から北九州地方に伝わった稲作は、日本列島(北海道など一部は除く)に着実に広まっていきました。そして、耕地の拡大・生産能力の向上など、どんどん本格化されていきました。
その原動力はずばり、

「米はうまいから!」

の一言に尽きるような気がします(笑)

昔生徒相手に、「つまりね、気候の変動によって違いはあっても、毎年毎年一定量の収穫は見込めるという稲作は、人々の生活に安定をもたらしたからなんですね」な~んて、理論的にカッコつけてみたこともあるんですが(もちろん、そういうメリットもあります)、つまるところ、人間を突き動かすものは「欲求」なのではないかと。
お米はおいしい。だからもっともっと作りたい。それこそが一番の原動力ではないか、と声を大にして主張したいワタシ自身、相当食い意地のはった人間であります。


ともかく理由はおいといて、田んぼをどんどん広げるのはよいのですが、良い耕地というのはどうしても限られてきます。さらに川からあまりに離れていると水もひけなかったでしょうから、水場に近いというのも不可欠な条件です。
そういう訳で、耕地や水をめぐって集落の間で衝突=争いがあいつぐようになり、勝ち組集落・負け組集落の二分化が生じてきました。
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こうした修羅場を勝ち抜いた集落は、多くの集落を従えて小共同体(小国=クニと呼ばれています)へと発展していき、クニ同士の戦い、すなわち内乱状態はしばらくの間続くことになります。

こうしたクニの様子は、中国の歴史書にちょこっと紹介されているので、それは次回で見てみたいと思います。


さて、勝ち組集落の内部はどうなっていたのでしょうか。ここでもう一度、冒頭のコメントを思い出してください。

「頭のいいリーダーがいる地域は、生産能力も高くて、どんどん力を蓄えていってクニの首長みたいなものに、なっていったのでしょうか?」

まさにこの通り、サバイバル社会を生き抜くために、そして大規模になっていく集落の生活レベルを保っていくためには、非凡なリーダーが必要でした。
稲作などの生産活動を維持・もしくは向上させて集落の人々を飢えさせないようにし、戦いがあれば先頭にたって指揮をとり、集落を守り抜く。リーダーはほんっとタイヘンです。くたびれます。だからこそ、すぐれたリーダーは集落内で強い力を誇示することができたのでしょう。

この強い力は人々を支配する「権力」となり、リーダーは「権力者」となりました。集落の内部でも強い者と従う者の二分化が始まったのです。
ちなみに、「権力者」たちは日本史では首長と呼ばれています。首長、というコトバはしばらく出てきますので、どうぞお見知りおきを。


最後に、図にあった「防御的集落」の例として、ふたつの集落を紹介します。
(1)敵の攻撃に対して優位に立たねば…そのためには高い場所に集落を作るべし!→コレを高地性集落といいます。なーんか難しそうな響きですが、単に高いところにある集落ということです。
(2)集落をぐるりと囲む深い深い濠を作って、敵が襲撃してくるのを防ぐべし!→コレを環濠集落といいます。わっか状の濠のある集落という意味です(これもまあ、そのまんまですね)。写真で見た堀はV字型で、バスケットボール選手ですっごく背が高い中国の人でも(お名前は何でしたっけ?)、すっぽり入りそうなほどの深さでした。攻撃をやりすごし、何とか濠をクリアーしても、今度は高い柵がめぐらしてあるので、敵はなかなか侵入できないというわけです。

戦いのすさまじさをうかがわせるものとしては、首のない骨や、矢をうけたあとのある骨などがあります。弥生時代は戦争が始まった時代でもありました。


次回はいよいよ卑弥呼登場です。それにしても記事が長くなる一方ですみません…。

2005年01月30日

祝☆わがクニが中国の歴史書に(ちょこっと)掲載されました!

前回、生き残りをかけたサバイバルレースで勝ちを重ねたムラ(集落)は、規模の巨大化や支配する側/される側という階層が生じてきたことによって、クニ(小国)と呼ばれるまでに成長したことをお話しました。
もちろん、クニ同士の争いも続くのですが、ここからは中国の歴史書からその様子を探っていこうと思います。
(注…中国では日本のことを「倭」と呼んでいますのでご了承下さい)


クニの様子が書かれている歴史書は三冊あります。
(1)『漢書』地理志
(2)『後漢書』東夷伝
(3)『魏志』倭人伝
では上から順番に見ていってみましょう。ちなみに『~』の部分は歴史書のタイトル、地理志というのはいわば章みたいなモノです。


(1)の「漢」の歴史書で書かれた記事は以下の通り。
「夫れ楽浪海中に倭人有り、分れて百余国と為る。歳時を以て(定期的に)来り献見すと云ふ」
短い文章ですが、大事なのはこの二点です。
*その頃、クニは百以上ほどあった。
*漢の出先機関であった「楽浪郡」に使者を送っていた。

百以上あったということは、クニといってもまだムラ(集落)に毛が生えたよーなものを想像させますが、やがて本格的な内乱で統廃合していく経過は、(3)で見てみましょう。

では中国の王朝(ここでは漢)になぜ使者を送っていたのか?
まずは親分-子分の関係を思い浮かべて下さい。親分は力もあっていばりんぼです。子分に声をかければ皆はせ参じます。その代わり気前がよくなければ、「この親分ケチでいけねーや」と子分に軽んじられてしまいます。

中国は親分です。それどころか長い間世界の中心、唯一の大輪の花として君臨しました。まわりの国は子分たちです。子分たちは定期的に、親分のご機嫌うかがいに出かけないといけません。でもこれには大きなメリットがあったのです。
なぜなら親分は、子分たちにナメられたらおしまいですから、彼らの持ってないようなお宝を与えることによって、「オレはスゴイだろ!だからおとなしく従うんだぜ!」と圧力をかけなくてはいけないからです。
で、子分たちはそれを自分たちの国で見せびらかし、「オレは中国の皇帝さまとすげー親しいワケよ。だから逆らうと身のためにならねーぜ」と、こちらも圧力をかける道具として使えるわけです。

クニの首長たちが中国へ使者を送った背景には、こうしたしたたかな計算もあったのです。
(一部聞き苦しい言葉がありましたが、ご勘弁下さい^ ^;)


(2)になると、もうちょっと詳しい内容になります。文献からの引用は長くなるのでカットして、要約を二点書き出します。
*57年、奴国(なのくに)の王が後漢に使者を送り、皇帝から印綬(印=はんこ、綬=印に付くくみひも)を受けた。
*107年、倭の国王らが生口(奴隷のこと)160人を差し上げて、謁見を願った。

奴国は現在の福岡県博多地方にあったと推測され、江戸時代には金の印が発見されています。そこには何と「漢委奴国王」と刻まれていたのです!それはまぎれもなく奴国王に与えられたはんこでした。
(ちなみに"委"は倭の間違いじゃないの?と気づいた方もいるかと思いますが、これは印を作った人のミスと考えられます)
ちなみに綬(ひも)の方はくっついて出てきませんでしたが、色によってランク付けされていたようです。奴国の王がもらったのは紫色の綬で、中国では最高の大臣クラスに与えられるモノだったそうですが、「けっこういいランクじゃん」か「それ程度の扱い」だったのかは、それぞれのご判断にゆだねます。

あと個人的に気になるのは、160人の奴隷のこと。異国で苦しい生活を送り、おそらく一生ふるさとの土を踏めなかった160人それぞれの人生に思いをはせると、ちょっと切なくなりますね…。


(3)はあの女王卑弥呼が登場することでも有名な史料ですね。こちらも要約だけ載せます。
後漢の末期から中国は戦乱に突入し、やがて三国が並び立つ「三国時代」を迎えますが、日本でも長くて深刻な内乱が勃発していました。
終わりのみえない内乱に疲れ果てたクニグニは相談を重ね、呪術に長けた一女子を王にたててようやく一つにまとまります。約30のクニからなるその「まとまり」が邪馬台国連合であり、神の意志をきく一女子こそがヒミコ=卑弥呼だったのです。

邪馬台国連合と卑弥呼の物語は次回にて。ではでは。

2005年01月31日

卑弥呼はとってもミステリアス!

まずは前回のあらすじから。

107年、倭の国王を称する「帥升」たちが中国の皇帝に謁見を願います。その後、倭国は内部で争いあい、まともな王もいなかったようです。
そして『魏志』倭人伝で、「女王の都する所」邪馬台国が登場するのです。


ここでいう女王とは卑弥呼のことですが、なぜ彼女が選ばれたのかは正直言って謎です。
『魏志』倭人伝では、「もともと倭では男の王をたてており、7~80年くらいはうまくいっていたけれども、その後内乱が打ち続き、終止符をうつためにクニグニが共同して一女子をたてた」と書いてあります。
もちろん卑弥呼はフツーの女性ではありません。特技は?とたずねると、こんな答えが返ってくるでしょう。
「わたくしは呪術を駆使し、神の意志をきくことができる特別な存在なのです。ゆえに、民たちもわたくしを畏敬しております」
確かに、私たちがあまりに巧みなマジックに心奪われるように(マジックに例えると卑弥呼さんは気を悪くするかなあ?)、卑弥呼の力には人々の心をがっしりとらえる何かがあったに違いありません。
しかも、演出という大事なツボもバッチリ押さえてます。人前に極力姿を見せないようにして神秘さをアピールしてますし、なんらかの儀式で登場するときには、魏からおくられた銅鏡に光を反射させて、卑弥呼を見上げている人々にその光を当てたそうです(まばゆい光で卑弥呼がよく見えず、しまいには光=卑弥呼のように思えたことでしょう。心憎い演出です。ヨッ、○○屋!)


それでもなぜ卑弥呼が約30のクニを束ねる王として選ばれたのか、そこがどうもよく分からんのです。
*もともとは男の王をたてていて、それがうまくいかなくなったからといって、すぐ女の王に乗り換えられるのか?(現代では女性天皇という存在自体がまだ認められていないのに…)
*卑弥呼をたすけていたのは弟というから、卑弥呼はあくまで付録で(もちろん欠かせない付録ですけど)、弟の政治手腕が買われたのか?
*そしたら弟が王になってもいいじゃん…と思いますが、卑弥呼に比べてぐんとカリスマ性に劣っていたから黒子に徹して涙を呑んだのか?
*それとも卑弥呼には、30のクニの利害をうまく切り盛りし、絶妙なバランスを維持させていく高度な政治的才幹があったけれど、女子ということで首長たちの意見も割れて、弟との共同統治というカタチをとったのか?
考えれば考えるほど、グルグル混乱してきますね~(私だけ?)。ただ、この時代はそれなりに女性が尊重されていたと思われるので、男尊女卑という面から考察するのは早計かな、という気がします。

皆さんのご意見もぜひお聞かせ下さい!


では、ここで卑弥呼のプロフィールを披露しましょう。
「鬼道(呪術のこと)を事とし、能く衆を惑わす。年巳(すで)に長大なるも、夫婿なし。男弟あり、佐(たす)けて国を治む。王となりしより以来、見るある者少なく、婢千人を以て自ら侍せしむ。ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝へ居処に出入す」←このひとりっきりの男子は一体…もしかして愛人?! 
 239年、使者を魏に遣わして、「親魏倭王」の金印紫綬と銅鏡100枚などを賜りました。狗奴国の男王卑弥弓呼(ひみここ)との不和も続くなど、苦労が絶えなかった様子もうかがわれます。卑弥呼が死んだときは、墳丘のような大きな墓を作り、奴婢100人以上がともに殉死したと書かれてます。


さて卑弥呼の死後、時代はどう移り変わっていくのか。それは次回へ回すとして、最後に『魏志』倭人伝から分かる倭人のすがたを少し紹介しますね~。

(1)男は、おとなも子供も顔や体に刺青をしていた。←見てみたい~。
(2)男は木綿で頭をまき、服は横幅の布をただ結わえているだけである。女は髪をうしろで結い、一枚の布を頭から貫いて着ていた(貫頭衣と呼んでます)。ちなみにみんな裸足。
(3)倭の地は温暖なので、冬も夏も生野菜を食べている
飲み食いには高杯を使い、手で食べている。
(4)一般人である下戸(げこ)は、支配階級の大人(たいじん)と道で会ってしまったら、しりごみして草むらに入ります。大人の言葉を聴くときはうずくまったりひざまずいたりして、両手を手にあてて敬っています。


ちなみに邪馬台国はどこにあったのか?これは興味の尽きない謎ですね~。
大きく分けると近畿説・九州説がありますが、『魏志』倭人伝の著者に一言言いたい!

「邪馬台国への道のりもいいけどさ、場所をきっちり書いといてや~~!」

でも謎がないのもつまらないから、これはこれでいいのかな?(どっちやねん…)

では次回こそ弥生時代ファイナルです。


<参考文献> 森山豊明著「語る日本史データベース」文芸社 2001(銅鏡の使い方について、引用させていただきました)

卑弥呼はとってもミステリアス!

まずは前回のあらすじから。

107年、倭の国王を称する「帥升」たちが中国の皇帝に謁見を願います。その後、倭国は内部で争いあい、まともな王もいなかったようです。
そして『魏志』倭人伝で、「女王の都する所」邪馬台国が登場するのです。


ここでいう女王とは卑弥呼のことですが、なぜ彼女が選ばれたのかは正直言って謎です。
『魏志』倭人伝では、「もともと倭では男の王をたてており、7~80年くらいはうまくいっていたけれども、その後内乱が打ち続き、終止符をうつためにクニグニが共同して一女子をたてた」と書いてあります。
もちろん卑弥呼はフツーの女性ではありません。特技は?とたずねると、こんな答えが返ってくるでしょう。
「わたくしは呪術を駆使し、神の意志をきくことができる特別な存在なのです。ゆえに、民たちもわたくしを畏敬しております」
確かに、私たちがあまりに巧みなマジックに心奪われるように(マジックに例えると卑弥呼さんは気を悪くするかなあ?)、卑弥呼の力には人々の心をがっしりとらえる何かがあったに違いありません。
しかも、演出という大事なツボもバッチリ押さえてます。人前に極力姿を見せないようにして神秘さをアピールしてますし、なんらかの儀式で登場するときには、魏からおくられた銅鏡に光を反射させて、卑弥呼を見上げている人々にその光を当てたそうです(まばゆい光で卑弥呼がよく見えず、しまいには光=卑弥呼のように思えたことでしょう。心憎い演出です。ヨッ、○○屋!)


それでもなぜ卑弥呼が約30のクニを束ねる王として選ばれたのか、そこがどうもよく分からんのです。
*もともとは男の王をたてていて、それがうまくいかなくなったからといって、すぐ女の王に乗り換えられるのか?(現代では女性天皇という存在自体がまだ認められていないのに…)
*卑弥呼をたすけていたのは弟というから、卑弥呼はあくまで付録で(もちろん欠かせない付録ですけど)、弟の政治手腕が買われたのか?
*そしたら弟が王になってもいいじゃん…と思いますが、卑弥呼に比べてぐんとカリスマ性に劣っていたから黒子に徹して涙を呑んだのか?
*それとも卑弥呼には、30のクニの利害をうまく切り盛りし、絶妙なバランスを維持させていく高度な政治的才幹があったけれど、女子ということで首長たちの意見も割れて、弟との共同統治というカタチをとったのか?
考えれば考えるほど、グルグル混乱してきますね~(私だけ?)。ただ、この時代はそれなりに女性が尊重されていたと思われるので、男尊女卑という面から考察するのは早計かな、という気がします。

皆さんのご意見もぜひお聞かせ下さい!


では、ここで卑弥呼のプロフィールを披露しましょう。
「鬼道(呪術のこと)を事とし、能く衆を惑わす。年巳(すで)に長大なるも、夫婿なし。男弟あり、佐(たす)けて国を治む。王となりしより以来、見るある者少なく、婢千人を以て自ら侍せしむ。ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝へ居処に出入す」←このひとりっきりの男子は一体…もしかして愛人?! 
 239年、使者を魏に遣わして、「親魏倭王」の金印紫綬と銅鏡100枚などを賜りました。狗奴国の男王卑弥弓呼(ひみここ)との不和も続くなど、苦労が絶えなかった様子もうかがわれます。卑弥呼が死んだときは、墳丘のような大きな墓を作り、奴婢100人以上がともに殉死したと書かれてます。


さて卑弥呼の死後、時代はどう移り変わっていくのか。それは次回へ回すとして、最後に『魏志』倭人伝から分かる倭人のすがたを少し紹介しますね~。

(1)男は、おとなも子供も顔や体に刺青をしていた。←見てみたい~。
(2)男は木綿で頭をまき、服は横幅の布をただ結わえているだけである。女は髪をうしろで結い、一枚の布を頭から貫いて着ていた(貫頭衣と呼んでます)。ちなみにみんな裸足。
(3)倭の地は温暖なので、冬も夏も生野菜を食べている
飲み食いには高杯を使い、手で食べている。
(4)一般人である下戸(げこ)は、支配階級の大人(たいじん)と道で会ってしまったら、しりごみして草むらに入ります。大人の言葉を聴くときはうずくまったりひざまずいたりして、両手を手にあてて敬っています。


ちなみに邪馬台国はどこにあったのか?これは興味の尽きない謎ですね~。
大きく分けると近畿説・九州説がありますが、『魏志』倭人伝の著者に一言言いたい!

「邪馬台国への道のりもいいけどさ、場所をきっちり書いといてや~~!」

でも謎がないのもつまらないから、これはこれでいいのかな?(どっちやねん…)

では次回こそ弥生時代ファイナルです。


<参考文献> 森山豊明著「語る日本史データベース」文芸社 2001(銅鏡の使い方について、引用させていただきました)

2005年02月01日

弥生時代ファイナル☆卑弥呼の墓は前方後円墳?!

意外に長くなってしまいましたが、今回で弥生時代は終了です。今日は卑弥呼が亡くなってからのお話と、スクラップしていた朝日新聞の記事から、最新の学説や発見を紹介したいと思います。


『魏志』倭人伝では、卑弥呼の没後は男の王(卑弥呼の弟かまたは別人か?)をたてたのですが、うまくおさまらず再び内乱が始まりました(「国中服せず、更々相誅殺し、当時千余人を殺す」という何とも殺伐とした表現になってます)。
そのため、卑弥呼の宗女(一族の女)で13歳だった壱与(いよ)を女王としたところ、ようやく国中がおさまったそうです。おそらくこの少女も卑弥呼のような能力やカリスマを持っていたのでしょう。
そして倭(日本)に関する記事は、魏をのっとった晋王朝の歴史書『晋書』を最後に、約150年間途絶えることになります。
中国では、現在の王朝が前の王朝の歴史を編纂するそうですが、晋のあとは小さな国が並び立つ混乱の時代に入るので、倭どころではなかったのかもしれませんね。

その最後の記事は、以下の通り。
「266年、倭の女王(壱与のことか?)が晋の都に使いをおくった」……『晋書』武帝記

再び倭が中国の歴史書に姿をあらわすのは、古墳時代の「倭の五王」のころになります。


大陸からもたらされた新しい文化が日本列島に根付き、否応なく社会が大きく変わっていく中で、「クニ」が生まれて統廃合されていく…これが弥生時代でありました。
ここからは、弥生時代に関する新聞記事を3つ、カンタンに要約して紹介します!

<稲作伝来、500年早まる>2003年5月20日

考古学の世界では「稲作の伝来は紀元前4~5世紀」が常識でしたが、国立歴史民俗博物館の研究により、紀元前1000年ころではないかという説が浮上しました。
この研究は、北部九州から出土した土器に付着した炭化物などを、「放射線炭素(C14)年代測定法」で分析するという最新の方法で行われました。
紀元前1000年ころというと中国では、「封神演義」でおなじみの殷→周王朝への交代期であり、戦乱期でもあります。いくさによる混乱を避け、日本にやってきた人たちこそが稲作などの文化をもたらしたのではないか……などなど想像はふくらみますが、裏付けるためにはまだまだ慎重な検討が必要なようです。
(未来の教科書に、弥生時代の始まりは紀元前1000年ころなんて書かれていたらスゴすぎる…これからも目が離せないですね!!)


<弥生のおむすびコロりん>2000年2月17日

約1800年前のものとみられるおにぎり状の炭化米が、平塚市の遺跡で発見されました。弥生時代の人が炊いた米を握って置いていたら、住居が火事になり、おにぎりのカタチを残したまま炭化したと考えられています。
おにぎりはかご状の容器に入っていた可能性があり、その点でも興味深い遺物です。
(私たちと同じように米を炊いておにぎりにしてたんだ…と何か感動した記事。炊くのはムリと考えられていたのですが、これから同じようなものが発見されていくと、食の見直しもはかられるかもしれませんね)


<卑弥呼 前方後円墳に眠る?>2004年2月17日

「卑弥呼は箸墓古墳に葬られていると思います」(山尾幸久・立命館大名誉教授)
箸墓古墳は奈良県桜井市にある、もっとも早い段階の前方後円墳です。こちらも科学的な研究方法により、築造時期が従来の説よりも3~40年古くなると推定され、ちょうど卑弥呼の死と重なる可能性が出てきたのです。
『魏志』倭人伝によると、卑弥呼の墓は約直径150メートルもある巨大なもの。箸墓古墳の後円部は直径160メートルですから、ほぼピタリと符号するのです。
そうなると、卑弥呼は古墳時代の始まりを告げる指導者であり、邪馬台国は近畿=奈良あたりにあったという二重の大発見になりますね。
もちろん異論もありますが、邪馬台国近畿説はかなり有利なものとなってきています。
(これまた未来の教科書に、古墳時代の始まりは卑弥呼のころからです、な~んて書かれていたら…一体どうするべ^ ^;うーん、こちらも目が離せない!!)


最後に、恥ずかしながら卑弥呼の想像図をどうぞ。昔、大学の先生が「卑弥呼は由紀さおりに似ている」とおっしゃっていたおぼえがあるので、ちょっとキツメの由紀さおりさんをイメージして書いたものです。本当にそうなのか、先生が単に由紀さんのファンだったのか、今でもよく分かりません…。
yayoi5.png
では次回は古墳時代へ。もしくは日本の神話を取り上げるかも。まあ、そのときの気分任せということで…(無責任ですなあ)