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2005年02月06日

前方後円墳は○○○○の特別会員証?!

今日から古墳時代に入ります。
古墳時代は3世紀中ごろ(年代は特定できていないのですが、「倭の女王が中国の晋に使いを送った」266年の前後くらいではないかと思います)から、7世紀前半(大化の改新の少し前?)までの大体400年間の時代を指します。
もっとも、592年(=6世紀末)に推古天皇が即位し、聖徳太子と蘇我馬子らの政治改革が始まるあたりからは「飛鳥時代」と呼ばれているので、古墳時代の終わりころと飛鳥時代はかなり重なっていることが分かります。
なんかややこしい感じですが、古墳がすがたを消したのが7世紀前半のため、一応そこまでを古墳時代にしているんですね。
ですが、聖徳太子らが出てきて華々しく活躍する頃になると古墳の価値は下落してしまうので、そこからは政治の中心地であった飛鳥の名をとって、「飛鳥時代」として気分も新たにスタートさせた訳です。
和泉元○さんのダブルブッキングを思わせるよーな(私だけ?)割といい加減な時代区分かも…。

まあそれはともかく、「古墳時代って具体的にどこを扱うのかハッキリせい!」ってな感じですよね^ ^;
古墳時代は、古墳のかたちや構造などの変化によって前期・中期・後期に区別されてます。後期はさっき書いた通り、飛鳥時代の影にすっかり隠れてるので、取り上げるのは古墳登場!の前期・古墳大ブーム!!の中期になります。

今日はまず、時代の名前になっている「古墳」とは何か?についてお話していきます。


古墳とは何ぞや?
まず一つめの答えは、
「支配者たちがまつられた巨大な墳墓(=丘状の墓)」になります。
支配者というのは、弥生時代で紹介した首長のことをさしますが、彼らもそれなりにレベルアップしたため、古墳時代では何か強そうでゴージャスっぽい「豪族」という名前に変わっています。(ころころ変わるから、面倒ですねえ)
そして古墳時代には、彼らリーダーを仕切る大親分が登場しています。それを「大王(おおきみ)」と呼んでます。この大王こそが、後に「天皇」と称することになった日本のトップリーダーなのです。

なので、ここでの支配者は豪族&大王を指します。大王の方が見栄もあってかでっかい古墳を作ってますが、豪族の中にも負けじと頑張っている人もいました。
大王と豪族の微妙なパワーバランスがうかがわれますね。


二つめの答えは、
「形態・内部構造・副葬品(亡き支配者とともにおさめられた愛用品や宝物)などが、中央から地方まで見事に統一化されている」特徴があげられます。
ここでは形態に注意してみましょう。まず下の図を見てください。
kohun1.png
おもな古墳の形態を四つ並べてみました。
(1)は円い古墳ということで円墳。カンタンでよいネーミングですね♪
(2)は四角い(方形)古墳ということで方墳。こちらもそのまんまでいいぞ!
では(3)は何でしょうか?生徒に聞いたらちゃんと「ぜんぽーこーえんふん」と答えてくれるのですが、意味はどこかに置き忘れてきてまるで魔法の呪文のようです。
実は円墳、方墳がおぼえられたら(3)と(4)は楽勝!
まず図の上が前、下が後ろとします。
(3)は前が方墳+後ろが円墳=前方後円墳
(4)は前が方墳+後ろも方墳=前方後方墳
と、算数のように足し算すればOKなのです。
もし読んで下さっている方の中で学生さんがいれば、意味を考えながら覚えていけば、少しはラクになると思いますよ~。特に古代史は、後世の人たちが名付け親ですから、けっこう「そのまんま」というパターンも多いんです。

さて、この中で大切なのは前方後円墳です。大規模なものが多いため(大きさランキングでは、なんと1位から44位まで全部この古墳が独占!)、支配者たちの強さが容易に想像できるからです。
ではなぜ支配者たちはそろって前方後円墳を作ったのでしょうか?そこには何らかのつながりがあるのでしょうか?
タイトルがずばりヒントなのですが…それはスミマセン、次回にて。


では、古墳とは何か?最後の答えです。
「亡くなった元支配者へのまつりを行う場でもあり、次の支配者の誕生をアピールするための聖域」という役割ももっていたのです。下の図をご覧ください。

今でこそ木がしげって小さな森にしか見えない古墳ですが、当時はキラキラと太陽に反射する石がしかれ、色々な形の埴輪(土製の人形や家や馬など)が並べられ、さぞきれいで壮観だったのではないか…と思います。
さて、支配者が亡くなると棺におさめられ、後円部に葬られます(次の支配者が、前代のパワーを受け取るためになきがらのそばで一晩あかす…という説もありました。その証拠に、6~7メートルもの長い棺もあったとか。でも私なら怖くて絶対ムリ!)。
そして継承の儀式を前方部で行うわけです。古墳は過去と未来をつなぐ、大事な大事な聖域でありました。


ちなみに、今の前方後円墳も参考までにのせておきます。埼玉県の稲荷山古墳で、くまの仮面をした人はウチのダンナです^ ^:
kohun2.jpg
ちょうど横からの写真です。左が後円部・右が前方部ですね。


では次回は古墳時代前期に入ります。


参考…日本最大の前方後円墳・大仙陵古墳(仁徳天皇陵といわれてます)の築造にかかる経費は古代の作り方にこだわると796億円(!)、最新の工法でも20億円が必要なのだそうです(笠原一男・児玉幸多編『続日本史こぼれ話』より)。
こりゃ、気の遠くなるような財力と権力が必要ですわ…。

2005年02月07日

前方後円墳は大和政権の特別会員証!!…かな?

本当は昨日のタイトルになるはずだったのが、気がつけば古墳の説明だけで終わってしまったため、仕方なく伏字を使ったら、なんか日曜日早朝の江川卓氏のゴーインな引っ張り方みたいになってしまいました(分からない方、ごめんなさい)。
まさしく「ご利用は計画的に」。今日は頑張るぞ!


ということで、ふたたび前方後円墳の登場です。
昨日ご紹介した通り、古墳の中でも前方後円墳はずばぬけて巨大なため、作るのに多大なコストが予想されることから、かなりの財力と権力をもった支配者の存在をうかがうことができました。
しかし、本来前方後円墳というカタチにこだわる必要はないんですよね。円墳でも方墳でも、はたまた三角形でも星型でもまあ何でもいいような気がします。要は自分の力を人々に見せつければいいワケですから。
それなのに、わざわざ「前方後円墳」というカタチにこだわっている支配者たちが各地に存在する。
という事情により、支配者たちの間に何らかのつながり…つまり私たちは同盟関係を結んでますよという証が、「前方後円墳」なのではないか、と考えられているのです。文字がなかった時代ですから書面での契約はムリですし、口約束はもってのほか、となれば自分の力も誇示できて同盟のメンバーであることも証明できる、一石二鳥の方法だったのかもしれません。

ではこのつながり(政治同盟)とは何だったのでしょうか?
まずは古墳時代前期の前方後円墳の分布をみてみましょう。
(1)近畿から西日本まで広域に広がっている。
(2)大型のものは大和(現在の奈良県あたり)に集中している。

この二点から、大和を中心とする何らかの強いまとまりが誕生していたことがうかがわれます。
このまとまり(政治同盟)を「大和政権」と呼んでいます。
大和政権の構成メンバーはカネもチカラもある各地の豪族ですが、団体行動にはリーダーは欠かせません。という訳で大和にいた豪族の中の豪族が「大王(おおきみ)」と呼ばれ、一応彼らのトップにたつことになりました。

ここでやっとタイトルに戻りますが、大和政権の(何ともゴージャスな)特別会員証=前方後円墳という図式が出来上がるという訳なのです。


ただこの「大和政権」、初めからバリバリと「オレ様は強い!だから皆の者従うのだ!」と天下を支配していたわけでは決してありません。
前方後円墳つながりと同様、前方後方墳つながりもありましたし、他にも色んなカタチの古墳がありましたから、まだまだひとつの勢力にすぎなかった感じがあります。
しかも内部の力関係もあやふやでした。
一応大王がトップでも、実際には各地の豪族たちと手を携えて何とか切り盛りしなくちゃいけなかった…それが生まれたばかりの「大和政権」のすがただったと考えられています。下のイメージ図を参照にしてください。
kohun5.png
明石家さんまやタモリなど、才能もあり実績も積んだ大物は一人で番組を任されますが、ちょっと目立つくらいの芸人さんだと複数で司会をやらざるえない…そんな力関係と似ているよーな、似てないよーな?(たとえがホント下手ですなあ)
島田紳助さんがいなかった時の司会を見ていて、ふと思ったんですよね。彼がやったことの是非はともかくとして、やっぱりスゴイ存在感だったんだな~って。


さて、おぼつかないスタートを切った大和政権ですが、古墳時代中期になるとめざましい発展をみせてくれます。
もう一度前方後円墳の分布・特徴に目を向けてみましょう。
(1)大王や豪族たちの前方後円墳はさらに巨大化。とくに大王のものはずば抜けてデカイ!
(2)分布は全国に拡大し、他のカタチの古墳がすがたを消している。

「大和政権」はいつしか他の政治同盟を蹴散らし、日本列島の主になったのでした。そして、豪族たちの中にもあなどれない実力者がいるとはいえ(岡山県造山古墳は何と全国第4位の大きさ!)、大和におられる大王の地位もたいへんレベルアップしたことが感じられます。イメージ図は以下の通り。
kohun6.png
豪族たちよりもはるか高みに立つために、大王たちはどのような努力をしたのでしょうか。
はげしい権力闘争が続いていたお隣の朝鮮半島との外交駆け引き、「世界の中心」であった中国への外交努力等々から、大王たち&大和政権の試行錯誤の国運営をみていきたいと思います。ではまた!


追記…稲荷山古墳近くのおみやげ屋さんで買った埴輪の写真、載せるの忘れました。というより今手元にないので、明日載せます。すみません…。

2005年02月08日

外交は 今も昔も 頭痛のタネ(字余り)

まずは埴輪のご登場!

haniwa.jpg

男子の正装姿だと思われます。ゆったりした服の袖や足まわりを、ひもでキュッとしばっていて、なかなかおしゃれですね。価格は、1000円から2000円の間だったような。
稲荷山古墳近くのおみやげ屋さんには、他にもいろんな埴輪がありますので、冷やかしだけでも楽しいですよ!


前回は前方後円墳つながりから、「大和政権」という本格的な政治同盟が生まれ、成長していった様子をご紹介しました。
現代でも北朝鮮への経済制裁の是非などなど、外交問題は国家の一大事であるのと同様、この大和政権にとっても「近隣諸国とどう付き合っていくか」というのは、避けては通れない課題でした。
というのも、すぐお隣の朝鮮半島が今よりももっと緊迫してた、タイヘンな状態だったからです。下の図をごらん下さい。
kohun4.png
当時の朝鮮半島は高句麗(こうくり)・新羅(しらぎ)・百済(くだら)の三国時代に突入していました。三国志で有名な中国の魏・呉・蜀と同じように、激しいせめぎ合いをしていたのです。

その中でも百済は、倭(日本)を味方にして少しでも優位にたとうとしました。同盟のあかしとして百済から贈られたものが、七支刀といういくつかに枝分かれした刀でした。(369年に作られたことが分かっています)
百済との関係は、途中謎の部分もありますが、おおむね友好だったようです。660年に百済が滅んだときには、百済再興という名目で、中大兄皇子が軍を出しているくらいです。(まあ、ボロ負けしましたけど…)

図の中で一つ説明していない国があります。伽耶(かや)諸国です。
”諸国”というとおり、国としてはまだ一つにまとまってなくて、ちっちゃな国が群れている…といった感じですね。
倭は武器などに欠かせない鉄資源をゲットするため、伽耶諸国の中に拠点をいくつか持っていた…と考えられています。
どういう拠点だったのかはイマイチ不明ですが、現在よりももっと朝鮮半島-日本列島の行き来はさかんだったと思われるので(国家・国境という面倒くさい概念もないですし、あいだの海も狭いですから、外国に行くというよりも、日本列島の延長線みたいな感覚だったのかも?)、朝鮮半島に倭の勢力が食い込んでいたのもうなずけます。


しかし朝鮮半島に足がかりを得た倭は、いやおうなく三国の争いに巻き込まれていきます。(まあ、百済と同盟を結んでいるところですでに巻き込まれているんですけどね^ ^;)
その証拠となっているのが、高句麗に建てられた石碑の文(高句麗好太王碑文)です。
これは高句麗の王様、好太王の功績をたたえるために息子が建てた記念碑で、「391年、倭軍が百済と新羅を破ったが、その後高句麗の好太王が倭軍を撃破して追っ払った」ということが書かれていました。

この碑文を読むと、
「なぜ日本は百済と新羅と戦う必要があったのかな?特に百済は同盟国なのに、ひどいなよな~」
という疑問が湧いてきます。
実はこの碑文には問題があって、肝心なところが読めなかったり(海を渡りて百残○○○羅を破りとなっていて、この三文字が実はとっても大事なのかもしれないっス…)、いろんな解釈があったりと、謎に満ちた代物なのです。
しかも、好太王の勝利を派手に書き立てるために、倭軍の強さを水増しした可能性もありそうです。

ただいずれにしても、高句麗と倭軍の衝突があったのは事実であり、日本がそれに敗れて朝鮮半島からの大幅な撤退を余儀なくされたのは間違いないと思います。
パワーでは勝てない、となればからめ手から攻めるべし!ということで、日本の外交方針は大きく転換しました。朝鮮半島の国々よりももっともっと強い、中国の力を借りることにしたのです。


そこで登場したのが「倭の五王」と呼ばれる五人の大王です。中国の歴史書(『宋書』)には、讃・珍・済・興・武としるされていて、それぞれどの大王(天皇)にあたるのかというのもかなり分かってます。
さん・ちん・せい・こう・ぶ、さん・ちん・せい・こう・ぶ……何かリズムに乗って口ずさむと覚えやすそうですね。
ちなみに昔はやったのは中国の歴代王朝を「もしもし亀よ♪」のメロディーにのせて覚えること。みごとにマッチするので試しにどうぞ。「殷・周・秦・漢・三国・晋♪南北朝・隋・唐・宋・元・明♪」そのあとは清・中華民国・中華人民共和国と続くんですが…どうやってメロディーにのせたのか忘れてしまいました。中途半端ですみません…。

寄り道している場合じゃないですね、倭の五王でした。別の手段で高句麗に対抗するため、この五人の大王たちは中国に使いを出してとにかくエラそーな肩書きと地位を得ることに励みます。特に最後の”武”は、高句麗よりも上位の肩書きを求めたくらいです(それはかないませんでしたが)。
このエラそーで仰々しい肩書きは、高句麗に「昔勝ったからといって日本をナメるんじゃないぞ!こっちだって中国から一目置かれているんだからな!」というハッタリにもなりますし、大王をサポートしている豪族たちに対しても、「おれ様はスゴイ!」という強烈なアピールになったことでしょう。”武”の頃には大和政権の基盤がかなり固まってきたことも分かっています。


では最後にこの”武”を紹介して終わりにします。
中国の歴史書で”武”と書かれた大王は、オオハツセワカタケルノミコト(第21代雄略天皇)と考えられています。
このワカタケル大王は、埼玉県稲荷山古墳から出土した鉄剣によって一躍時の人(?)になりました。というのもこの錆びついた鉄剣をX線撮影したところ、字が浮かび上がり、この鉄剣の持ち主がワカタケル大王に仕えていたことが明らかになったからでした。まさに世紀の大発見!
さらにこの鉄剣は埼玉県から発見されたことで、大和政権の支配領域がぐんと広がっていたことも分かりました。
この貴重な鉄剣、稲荷山古墳の資料館で見ることができるので、お近くに行かれたときはぜひどうぞ。


ところでこのワカタケル大王ですが、相当残虐で相当女好きだったという不名誉なエピソードが残っています。
兄二人を殺し、いとこを狩りにさそって猪とまちがえたふりをして射殺(ひどすぎるー!)、さらにはその弟を待伏せして殺害し、全て邪魔者を排除したあとでやっと即位したと思うと、今度は百済からやってきた池津媛(いけつひめ)が不倫をしていたため、媛とその相手の手足を木にしばりつけて焼き殺す等々、すさまじいエピソードがてんこもり。
まあ、不倫されたら誰だって怒るけどさ…ちょっと加減というものも考えてほしいよなあ。
そもそも彼自身、決して人のことを批判できる立場ではないんですよね。家臣の妻が美しいのを知って、その家臣を左遷してそのすきにちゃっかり奪ってしまった…な~んてアクドイこともやってるのです。歴史ドラマの典型的な悪役のよう。黄門さまにバッサリ一刀両断してほしいですね。


次回は、争いのたえない朝鮮半島から日本列島へ逃れてきた人々が、もたらしてくれたとっても大切なモノ…これを中心にお話する予定です。
そして、よく実態のみえない「大和政権」の内部を解体していければさらによいな~と。果たしてどこまでできるかな?

2005年02月09日

そこんとこ「夜・路・四・苦」・・・は古代人の大いなる知恵!

夜露死九というのもどこかで見たような…。けっこういろんなバージョンがあるんですよね、ヤンキーの人たちが書く当て字って。紅蓮だの憂鬱だの、毒々しいスプレーで描かれた文字をみるたび、「どうしてこんな難しい漢字を知っているんだろう?」と不思議になったものです。真夜中、右手にスプレー缶を、左手に国語辞典を持ったヤンキーがいたら…なんか親近感が湧いてきそうでコワイなあ。
ということで(?)、今回のキーワードは「当て字」です。


前回、激しく揺れ動く朝鮮半島の様子をご紹介しました。三国の対立には一向に終わりが見えません(今のイスラエルとパレスチナみたいな感じだったのかも…)。こうした中、故郷に見切りをつけて日本へ「亡命」する朝鮮の人々が増え続けていきました。彼らを「渡来人」または「帰化人」と呼んでいます(注:ただし最近は「帰化人」という言葉は滅多に使われません)。
弥生文化の基礎をこしらえてくれたのも、大陸から渡ってきた人々でしたが、古墳文化やつづく飛鳥文化に華麗な彩りをあたえたのも、また彼ら渡来人でした。
しかも今度は、優秀な技術者や知識人が相当数やってきたのです。青色発光ダイオードの裁判で新たに問題とされた、すぐれた頭脳や技術の「海外流出」…こうした事態が、朝鮮半島と日本の間で起きていたのでした。
どれほど多くの渡来人が日本に移り住んだのか、というのは平安初期の『新撰姓氏録』からうかがうことができます。ここに載せられたおよそ1200の氏族(一族)のうち、なんと約3割を渡来人系の一族が占めているという結果が出ているのです。
平安時代から長い長い時が立ちましたが、この3割という高いパーセンテージからは、もしかしたら私のご先祖さまも、亡命してきた渡来人(の家来の家来)だったりして…な~んて妄想もできちゃいますね^ ^;


さて、技術の面では鉄器・須恵器(1000度以上の高温で焼かれた土器で、ろくろの使用やのぼり窯での焼成など、最新の技術が用いられ、平安時代まで製作・使用された)の生産、機織、金属工芸、土木などが伝えられ、大和政権は彼らをプロフェッショナル技術者集団=「品部(しなべ)」に組み込み、フル活用したと思われます。
知識や学問の面でも、五経博士・医博士・易博士などのすばらしい学者さんが次々やってきて、さまざまな教えを伝授してくれるなど、日本の文化の質は飛躍的にレベルアップしたのですが、とりあえず「漢字の伝来」ひとつにしぼって、お話していきたいと思います。


今までずっと中国や朝鮮半島の史料しか引用できなかった事でもお分かりの通り、古代日本には「日本語」はあっても「文字」はありませんでした。その日本語に文字を与え、文章を書くのを可能にしたのが「漢字」だったのです。
漢字が日本にもたらされたのは4~5世紀、第15代応神天皇の時代が最初といわれています(昨日のワカタケル大王=雄略天皇は第21代目)。漢字を自在にあやつり、文章をさらさらと書きつづる渡来人たちは、大和政権の貴重な「書記官」となりました。
「書記官」たちは当初、話される日本語を自分たちの(もしくは他の人の)頭で翻訳して、自分たちの言葉で書いていた…ような気がします。根拠のない推理で申し訳ないんですが^ ^;
しかしやがて彼らは日本語をそのまんま書き写す方法を編み出したのでした。それが「当て字」でした。

しょーもないタイトルですが、ここでもう一度見てみると。
「夜(よ)・路(ろ)・四(し)・苦(く)」
…意味はまったくありませんが、音読みするとちゃんと文になっていますよね。
このように漢字の音に注目して、それをひとつひとつ当てはめていくことで、日本語を文章化するのに成功したわけなのです。
ただ、当て字の弱点は文が果てしなく長くなることです。今書いている日記でも、かりに全部当て字にしてみたら、とっくに字数制限を越してしまうことでしょう(その前に誰も読んでくれないって!)。
そこで訓読みをいっしょに用いるわけです。訓読みは逆に、音はひとまず無視して、意味をあてるやり方です。たとえば、
馬→音読みだと「ば」・「ま」、訓読みだと「うま」
になりますね。大陸の人たちにとっては馬は「うま」と読みませんが、意味が同じならそれでよし!ということで、訓読みが登場したのです。
この音・訓併用で最古の歴史書『古事記』を書いたのが太安万侶(おおのやすまろ)という人物でした。彼は序文の中でこう述べています。
「訓で記すと、漢字の意味と古語の意味が一致しません(注…彼は古い伝承を書き写しているため、昔のことばの意味と、現在の漢字の意味をマッチさせるというさらに困難なことをやっているワケなんですね~。考えるだけでクラクラするなあ)。音で書きつらねると、文章が長々しくなります。よって、ある時は音・訓を交え、ある時はすべて訓を用いて書くことにしました」(田辺聖子著『田辺聖子の古事記』より引用させていただきました)
こういった事情で、本来の『古事記』やおなじみ『万葉集』は、どこひらいても漢字、漢字、また漢字といった具合で、今読むにはとてつもない努力と根性が必要ではないかと…。今はひらがな・カタカナがあってしみじみありがたいッス……。

とはいえ、漢字は本当に偉大でした。今現在もこんなにたくさん使わせていただいているのですから。
音読み・訓読みに泣いている小学生のお子さんは少なくないと思いますが、これも昔の人の試行錯誤のたまもの、どうぞ頑張って勉強して下さいね~。


『古事記』成立のお話は個人的に大好きなので、また機会があったら詳しくご紹介できれば…と思ってます。
最後に豆知識を。音読み・訓読みの二通りは仕方ないとしても、音読みが複数ある漢字っていったい何なのか?
これは中国の事情が関係しています。おおざっぱに説明すると、この当時中国は南と北に分裂していまして、はじめに百済経由で日本にもたらされたのが南の漢字、呉音と呼ばれるものでした。そのあと北で用いられていた読み方(漢音)が入ってきたため、現在のようにややこしいことになってしまったワケなのです。
例を挙げてみますね。
一・二・三は呉音ではイチ・ニ・サン、漢音ではイツ・ジ・サン
元は呉音ではガン(元日)、漢音ではゲン(元気)
正は呉音ではショウ(正月)、漢音ではセイ(正義)

といった具合です。

うーん、トリビアの泉に出すには難しいかな^ ^;


漢字だけで何か長くなってしまいました。本当はもうひとつの大切な伝来もの「仏教」についても、ご紹介する予定だったんですが、ちょっと後にまわした方がいいかなあ。
一応次回は「大和政権・解体新書(仮)」にするべ~と思ってます。もし違っていたらごめんなさい!